銀杏の大木

 

もう一つの象徴

母校を思い出すとき、校門は必須アイテムですが、もうひとつ、その左先にある銀杏の大木の姿も欠かせません。銀杏は、三つ葉の校章にもなっていますし、郷土の誇り熊本城への思いにも連なります。今回は正門からの来訪者を迎える銀杏に関するお話をしましょう。

最初はなかった銀杏

明治37年(1904年)熊中が藪ノ内から大江の新校舎に移転したとき、元は託麻ヶ原の西端の桑畑だった土地ですから、そこにあの銀杏はまだ生えていませんでした。移転間もないころの写真を見ると、校舎の前に校門、そこから手前に坂道(それに続く道路はない!ことにも注目)があるだけです。

明治37年(1904年)の熊中南面遠景図

シンボルとして帽章の銀杏

明治33年(1900年)に第二濟々黌として開学した母校では、制帽の徽章は、濟々黌時代のものをそのまま(五弁の桜花)使っていました。しかし、明治36年(1903年)4月に野田寛先生は、それを三つ葉銀杏に替えら、次いで明治39年(1906年)には校章徽章もこの三つ葉銀杏と制定されました。なぜ、銀杏なのか。江原会会報創刊号(昭和42年)に寄せられた野田赳夫先生(本校旧職員・中14回卒)の「熊本中学校徽章の意義について」に、昭和10年5月30日付の野田寛先生からの書簡が引用されています。それによりますと、“銀杏を以て熊本県(肥後)の伝統的固有の美風を代表させ、熊本中学校を以てその美風を維持し養成する所の正統的本拠とする抱負を寓したる次第にて、玄関前に桜と銀杏樹を栽えたると同様に候(桜は無論日本全国を代表し、大和魂即日本精神を代表させ銀杏は熊本の精神を代表させたるものに候)。それがため、門柱を熊本城に縁のあるものを建てたる次第に候。」とあります。

中8回生が卒業記念に植樹

では、あの銀杏はいつからそこにあるのでしょうか。「熊中・熊高八十年史」「同百年史」「福田源蔵先生伝」等の記載から銀杏の来歴を略記します。明治41年(1908年)3月、中8回生が卒業記念樹として銀杏を植え、今に至って大木になった、これが由来です。中8回生は帽章に因んだ銀杏樹を母校に贈呈しよう、なりました。しかし当時、庭木に銀杏は凶と されており、春竹あたりに多数あった庭木屋を2、3日かけて探しても銀杏の苗木はなかったそうで、ちょうどよい大きさの幼樹をある寺の境内に見つけ、譲ってもらう交渉もした、とあります。最終的にどこから苗木を調達したかは、中8回生の当事者も忘れてしまったそうですが、いずれにせよ、中8回卒業の大先輩方の熱意により、銀杏はあの位置に植えられました。中8回生が熊本中学校に入学したその4月に、帽章が桜から銀杏になった経緯を考えると、5年間頭上でお世話になった銀杏をぜひとも母校に贈呈したい、という熱い気持ちを持たれたのでしょう。今日の卒業生にとっては、そこにあって当たり前の銀杏の木ですが、実は大OBの母校熊中への思いを具現化したその姿を、日々目にしながら学園生活を過ごしていたのですね。そして、卒業式の日にこの銀杏の実生から育った苗木を校長先生から頂き自宅に植え、今日、それがかなりの大きさに成長しているよ、という卒業生もたくさんいるのではないでしょうか。

その名を不知火

「福田源蔵先生伝」を開くと、そのP.353上段に銀杏の写真があり“銀杏「不知火」は今も健在”とあります。つまり、あの銀杏の木にはちゃんと名前があり、その名を「不知火」というのです。人は愛するものに名前をつけます。その意味では校名を示す門札を敢えて欠く校門との対比が際立ちます。春の緑若葉が日々濃くなる様子、夏の日差しに木陰をつくる繁茂した緑葉、秋が深まれば黄色い実が落ち地面を覆う一面の落葉、冬には幹だけになりスクっと立つ姿。母校正面の写真でその撮影された季節が知りたければ、この銀杏の姿を見るだけで十分です。

銀杏だからこそ

銀杏は古来、火災に強い、とされています。熊本城の天守前にそびえる加藤清正ゆかりの銀杏が西南の役の大火をくぐり抜けたことは有名ですし、神社仏閣の銀杏には火災で燃えて真っ黒に炭化したが、みごと復た芽吹いた、という再生譚を持つものが少なくありません。母校の銀杏「不知火」も同様です。昭和20年7月1日深夜から翌2日未明の熊本大空襲で、熊中は米軍の焼夷弾攻撃により図書館を除いて全焼しましたが、銀杏・不知火は無事生き残り今日に至っています。昭和20年(1945年)に撮影された校舎焼け跡に立つ福田源蔵先生(第3代校長)の写真で往時をしのぶことができます。

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