応援歌と逍遥歌を必要とした理由  昭和26年の生徒実相

江原会関連の集まりでは、次第の最後に、校歌だけでなく第二応援歌も歌わないと何だか気分が締まりませんよね。近年では第一応援歌と逍遥歌は、夏の熊高音楽会のときに歌うくらいかもしれませんが、筆者が高11回卒の先輩とお話したとき、第一応援歌や逍遥歌も在学中によく歌ったよ、とおっしゃっていました。

今回は、第一応援歌、逍遥歌、そして第二応援歌。これらが熊高に創作された理由を探ってみました。答えを「熊中・熊高八十年史」にある第二篇戦後史の生徒会史から導いてみましょう。

1951年(昭和26年)後期のことに触れた部分なのですが、熊中校舎は空襲で焼亡したため、当時の熊高はまだ現在の校地に戻っておらず、旧陸軍第六師団十六部隊の敷地南半分(現県立劇場があるところ)の兵舎4棟を仮校舎として使っていた時代です。南京虫の攻撃を受ける劣悪な環境でありながら、秋10月には文化祭が行われました。

会場は新世界劇場が使われていますが、九州放送管弦楽団の招待演奏会があって、ドボルザーク「新世界」より、ウェーバー「魔弾の射手 序曲」、ロッシーニ「ウィリアム・テル序曲」が演奏され、熊高音楽部のコーラス、チェーホフの演劇「結婚申込」、熊高生のバイオリンやピアノの独奏も披露されました。

学習環境という意味では全く不完全な時代ですが、文化祭の内容は現在のものに劣りません。熊高生の資質の高さを感じるのですが、「八十年史」には次のように記されています。

応援歌・逍遥歌

当時は、演奏者のテクニックはすぐれたものであったが、それを鑑賞する一般のレベルは未だ洗練されておらず、ワーワーいいながら演奏を聴くという雰囲気であった。このような中に新風を吹き込んだのが音楽の滝本泰三教諭であった。対外試合で目覚ましい活躍をする体育系各部を整然と応援する為に、「第一応援歌」の歌詞募集をして応募した作品は数点あったが、ものになりそうな3年生梶尾護人の作品の補作を国語科の柳本興一教諭が担当した。また、当時横溢していた旧制高校的雰囲気から、柳本興一教諭が「逍遥歌」を作詞、いずれも滝本泰三教諭が作曲を担当した。

「第一応援歌」がやヽ古風な感じの曲となったことから、国語科の小泉公光教諭が現代感覚を取り入れた「第二応援歌」を作詞、滝本教諭もこれに現代的な曲想で作曲をしたのであった。これ等3曲は創立50周年式典(筆者注:1950年、昭和25年)が行われた頃から機運が盛り上がり、26年になって夏の公募、そして梶原、柳本教諭、小泉教諭の作詞と次々に出来上がった歌詞に、滝本教諭が一気に曲をつけたものであった。この3曲は、翌27年になって、青空のアッセンブリーの際に発表された。

青空のアッセンブリー、とは洒落た言い方ですが、要は屋外集会です。全校生徒を収容できる屋内講堂などなかった時代だったのです。第一応援歌、逍遥歌に出てくる「北斗」「北辰」という歌詞は、旧制第七高等学校造士館の寮歌「北辰斜に」を想起させ、確かに旧制高校的雰囲気ですね。

曲ですから、文字の説明より聴いて感じる方が理にかなっています。ネットにすばらしい音源が上がっていますので、ぜひ聴いてみてくださいませ。

Follow me!

前の記事

士君子誕生