士君子誕生

「士君子」教育は、120年を超す年月や社会情勢の根本的変化をも超越する普遍性を持つ教育思想ですが、熊中・熊高に根付く「士君子」教育がどのようにして誕生したのか、「新版 野田先生傳」の記述でたどってみます。


齋藤鶴跡氏の書「士君子」。

齋藤鶴跡:本名勝次。元熊大教授(教育学部・書道)。斎藤宗績氏(熊中1回卒、初代江原会会長)と住所が近かった。この「士君子」の書は、孫さんの熊高入学記念といわれている。

ジェントルマンシップとの出会い

始まりは、まだ熊本中学校ができる前のことでした。1897年(明治30年)の暮、濟々黌における野田寛先生の師である佐々克堂(友房)先生が欧州漫遊から帰国しました。やがて克堂先生は熊本の留守邸に、国友重章・安達謙蔵・井芹経平他とともに野田先生を招き、欧州視察談を披露、英国紳士と接触した感想も語り、紳士を大そう賞揚されました。

話を聴いた一人が、日本の紳士社会との比較について質問したところ、克堂先生は「それは比較にならない。英国の紳士は実に立派だが、日本の紳士は粗野で土百姓の集まりのようだ。いったい英国紳士は昔の日本の武士と少しも変わらない。心ばえから言語動作、まったく同様であると言える。日本は、残念だが、維新このかた古来の良風美俗が失われたからであろう」と語りました。

イートン校の教育

克堂先生の話はさらに転じて、英国の教育の事に及び、イートンの教育の立派なことを賞揚し、道途見聞された青年の言動をしきりに讃めて、その周到な教育の徹底を賞賛されました。野田先生は、克堂先生のこの話を、非常に興味深く傾聴され、それまで濟々黌で実践されてきた克堂先生の教育方針には、欧州視察から得られた知見を加えた修正が必要ではないか、と思われたのでした。

そうだ、士君子養成だ!

克堂先生が賞揚される英国紳士の美風と、その美風の涵養に資している英国のパブリック・スクールの教育方法が、平素からの野田先生が抱懐しておられた教育理念と期せずして一致しているのに、密かに会心の満足を感じられると共に、野田先生の教育理念は、いよいよ確固たる信念になりました。これが1898年(明治31年)夏のことです。だけども、このときはまだ熊本中学校創設以前のことで、濟々黌の教育理念改革に直ちに取り組むには時期尚早。「士君子」教育の開始には、あと2年、待たないといけません。

天の采配。濟々黌分割と熊中創設

1900年(明治33年)4月、濟々黌は二分割され、第二済々黌黌長=熊本中学校校長に野田先生が就かれます。いよいよ「士君子養成」という明瞭な標準に基づく、理想教育が始まったのです。

濟々黌の分割は中学校の生徒定員に関する法令改正に従ったものですが、このことが結果的に、一幹両枝の片方が従来の済々黌教育を継承し、もう片方は野田先生の頭の中で既に固まっていた新しい理想的な教育を実践する学校として創られるこることにつながりました。濟々黌の分割は、士君子教育の実践という点から見ると、時期と言い人事の差配と言い、これはまさに天の采配としか言いようがありません。

士君子養成と校訓

熊中の教育では、教養があり人格も優れた紳士=士君子を養成する。そのためには、濟々黌の美点をそのまま踏襲し、それを更に野田先生流の教育思想で磨きをかけること、とされたのですが、士君子養成という短い言葉の具体的内容を示すものが校訓です。当然、校訓も濟々黌の精神を継承しています。濟々黌の「進取敢為」「振勇気」の真意は引き継いだ上で、熊中の校訓では「善を為すに勇に」と一種の条件付けがなされています。また、師たる佐々克堂先生の教えとして野田先生の心に浸みていた王陽明「立志の説」も校訓に取り入れられています。

さて、令和の世から、明治の“士君子誕生”を振り返りましたが、「士君子」は、野田先生の思いを保持しつつも、令和に至る間の時代時代で様々な変化を見せ、また、熊中・熊高の在り方や生徒・卒業生の心持に大きな影響を与え続けています。イートン校のサマースクール参加もその系譜につながるものですが、その話は、また別項でご紹介いたします。


熊中校訓(1~3行目が熊高校訓と異なることに注意)

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