同田貫の槍。一幹両枝の物的証し

一幹両枝は「いっかんりょうし」と読みます。

四文字熟語風ですが、熊本における濟々黌と熊中・熊高との関係を言い表したものです。土台たる一本の幹から、二本の太い枝が育っていることになぞらえています。幹が元々の濟々黌で、二本の枝は第一と第二の両濟々黌。両枝は兄弟であり、兄が現在の済々黌で弟が熊高です。他によくある本校と分校、親と子、本幹と脇枝の関係ではありません。

両枝に分かれたとき、第一濟々黌は黒髪の新校舎に移りましたが、そのとき、濟々黌の宝物のうち、かなりのものが旧校舎を使う弟の第二済々黌の許に残りました。不用品を残置したのではなく、プレゼントとして宝物を残してくれたのです。それらは、令和の今も、江原会館の2階に収蔵してあります。中でも耳目をひくことにおいて、教育勅語起草者のひとりである元田永孚直筆の「敎育ニ関スル勅語」と、同田貫次兵衛銘の大身槍が双璧ではないでしょうか。

それでは、濟々黌から熊中に伝わったお宝の由来について、「熊中・熊高百年史」の記述を追って、特に同田貫の鎗について調べてみましょう。

校旗デザインの前提にするほどの宝物、同田貫の鎗

本校や江原会館には済々黌時代のも含め本校伝来の書画等が多く保存されている。これは済々黌分割に際して第一済々黌が黒髪村に豪勢な校舎を建築したとき、第二済々黌があまりにも粗末な校舎や教材に甘んじなければならなくなったため、井芹経平黌長の好意で明治の元勲や諸名家の筆になる書画等済々黌創立当初の貴重な資料を譲り置いていったものである。(以下略)

江原エピソード「熊中お宝疎開秘話」から抜粋

(前方略)…校旗は、肥後熊本の豪傑沢村大学*が徳川家康より拝受した皆朱の鑓(皆朱の鑓を持つことを許された武者は全国でも僅少であったらしい)を柄としたもので、旗の中の旗として好評を博したものである。(以下略)

江原エピソード「『校旗』の槍物語」から抜粋

*沢村大学:名は吉重。1560(永禄3年)-1650(慶安3年9月17日)享年91。織豊-江戸時代前期の武士。越前若狭高浜の領主逸見昌経に、のち細川忠興(三斎)に仕え、文禄の役、関ケ原の戦いなどで軍功を立てた。1632年(寛永9年)、細川忠利に従い肥後に移り、1637年(寛永14年)の島原の乱に従軍した。足軽の身から細川家の家老にまで出世し、晩年の宮本武蔵の世話をしたひとりとされる。

赤の槍柄は、江原会館2階で展示されています。

校旗の項目でも触れましたが、熊中校旗の制定については、「熊中・熊高八十年史」の年表で、昭和6年(1931)9月21日の記事として、

「校旗は『カチ色の地に白色で校章を表し、周囲は白の縁をとり、柄は朱、大身の槍を付す』ことに決定」

とあります。色の指定までしてある校旗の柄に関する決定は、創立以来、本校に伝わっていた同田貫の大身の槍を念頭に置いてのものであることがわかります。

銘 同田貫次兵衛の大身の槍

同田貫は「どうだぬき」と読みます。かつて玉名にいた刀工集団銘で、玉名を代表する美術工芸品のひとつです。

同田貫次兵衛作の槍は、70㎝を超える長さがあり、刺さったら痛そうです。

熊高校旗の槍のルーツを探りに、うんと昔の九州・肥後に行きますが、それが今日につながるまでには長い道のりがありますので、覚悟してお付き合いください。

強い武器を。度重なる戦いを経験して醸成された伝統

刀伊の入寇の実戦経験

高麗国では満州の女真族のことを、高麗の東の未開異民族という意味で、東夷と蔑称しました。日本でもその音を借り刀伊(とい)を以て女真族のことを称呼しました。

刀伊の入寇は、1019年(寛仁3年)春、日本海に面した沿海州の女真族の一派が海賊行為を働きながら朝鮮半島東岸を南下、壱岐・対馬を襲い、更に筑前・肥前まで侵攻し、殺人・暴行・捕虜・収奪・破壊・放火など残虐非道の限りを尽くした事件です。外敵来襲で九州は緊急事態に陥いりましたが、その一方で平安の都は後一条天皇の御代、摂政職を嫡男頼道に譲った藤原道長が栄華を極め、「この世をば わが世とぞ思ふ・・・」と歌ったのが前年秋のことでした。

後の蒙古襲来を連想させる侵略事件ですが、二つの意味で、日本社会に大きな影響を及ぼしました。一つは、九州の武士が本気命がけの防衛戦争を経験したこと、もう一つは、外来の致死性伝染病(痘瘡。もがさ、天然痘)のパンデミックによる国難を経験したことです。後者の天然痘流行についても、新型コロナで悩む今日と同様の話が記録に残っており、その興味も尽きませんが、本題から逸脱するのでここでの記述は我慢しましょう。

不良貴族 藤原隆家の活躍

隆家は名門藤原北家で、摂政道長は叔父にあたります。隆家の父・道隆(道長はその弟)は摂政・関白でしたので、隆家も同様の官位に就き得た高貴な人です。ただ、性格が乱暴で「天下のさがな者」と言われ、996年(長徳2年)花山上皇を襲いその法衣袖を射抜くという事件を起こし、道長により出雲権守というありない左遷処分を受けてしまいました(長徳の変)。

藤原隆家像

その後、隆家は大赦で帰京できたものの、道長との権力争いは常に劣勢を強いられ、1012年(長和元年)末、鋭利な物の刺入外傷を原因とした眼病になり、仕事も付合いもできずステイホームを強いられました。そんなとき、大宰府に眼病治療の唐人名医がいるとの噂が耳に入り、隆家は自ら、これまたありえない大宰権帥への任官を所望しました。ライバルの隆家が大宰府に行き、九州勢と結託することは絶対に避けたい道長でしたが、同じく眼病に悩む三条天皇の隆家押しが強く、1014年(長和3年)11月、ついに大宰権帥に任ぜられました。

藤原道長と勢力争いをするほどの人物が、九州の太宰府の次官になることを自ら望むなど、普通なら絶対にありえません。でも、これが天の差配です。隆家は大宰府で善政を施し、九州の在地勢力は、隆家にすっかり心服してしまいました。

そんな中に生じたのが、前述の刀伊の入寇です。隆家は日本防衛の総指揮官として大宰大監・大蔵種材らを指揮し、刀伊に応戦・撃退に成功、戦後処理も完璧にこなしました。戦える貴族、これは逸材です。

隆家は、同年暮れに太宰権帥を辞して帰京し、道長の九体阿弥陀堂(後の法成寺)の建立発願を祝っていますが、このとき都に、刀伊から感染した天然痘のお土産まで帯同してしまった(と都のウワサが炎上した)のでした。

菊池氏の祖先

初代 菊池則隆

このように貴族中の貴族でありながら武の面でも活躍した藤原隆家ですが、肥後に土着した菊池氏は、氏祖の菊池則隆をこの藤原隆家の孫** である、としています。菊池氏の始まりには外敵との本気の戦いがあったことになります。生死を賭けた本気バトルでは、使う武器アイテムにも本気のこだわりが必要でしょう。このような経験をした武人の菊池一族として、刀や槍を重視するのは当然の伝統になります。

**1959年(昭和34年)、尚絅校教諭の志方正和氏が発した「菊池氏の起源について」という論文で、菊池氏の真の出自が解明されており、菊池氏は藤原隆家と血縁でつながってはいないが、隆家の郎党で親しい関係にあったので藤原氏を称した。菊池氏は元々肥後土着の国人で、大宰府の高級役人であった、とされており、これが定説になっています。

鎌倉時代の肥後の武士

時は下り、鎌倉時代、北条時宗が執権だったころ。またもや海外からの侵略に対する防衛戦争を強いられました。文永・弘安の役です。規模が刀伊の入寇とは比較にならないくらい侵攻規模が大きく、今ならば宇宙人が地球征服に来た、みたいなものです。

このときの肥後の武士は?

と言えば、竹崎季長の名前が上がりますが、肥後国の北半分を領地としていた第十代菊池武房も、この国土防衛戦で活躍しました。彼らが戦う様子は「蒙古襲来絵詞」に描かれていますので、おなじみですね。絵詞の中で、季長は武房と出会ったとき、「…まことゆゆしく見えしに、『誰にてわたらせ給い候ぞ、涼しくこそ見え候らえ』と申すに…」」と、武房の“武者んよさ”にシビレています。

蒙古襲来絵詞の第十代菊池武房

こうして菊池氏は、またもや本気バトルを経験しました。異民族の武器とわたりあえる強力な武器、丈夫な刀や槍、それを自領内で生産することは、当然の要求スペックとして一族のDNAに刻まれたことでしょう。

ちなみに、蒙古襲来のとき、菊池武房の叔父の西郷隆政もともに戦っていますが、この西郷隆政は薩摩の西郷隆盛の祖先です。幕末の安政の大獄のとき、薩摩藩は幕府の追及をかわそうと、隆盛に奄美潜居を命じます。そのとき、隆盛は潜伏偽名として「菊池源吾」を名乗っています。意図するところは“吾が源、菊池にあり”です。また西郷が奄美でなした二人の子どもの名は、菊次郎と菊草で、菊の字を入れています。

延寿鍛冶の誕生

話を菊池武房に戻します。武房の時代、蒙古襲来は突然の国難でしたが、刀伊の入寇を経験していた九州・肥後の武士にとっては、家訓に経験則が伝わる話でありましょうし、だから強力な武器を作れる刀鍛冶を自分の領内に作らねば、という命題は当然のことだったでしょう。自国防衛の根幹たるハイテク鉄製武器を内製化したい、原料や製造技術を外部調達に頼っていては国防の大きなリスクになる。これは倭国の時代から続く国家的命題でした。

何としても菊池で刀を作りたい。武房は、菊池川で良質の砂鉄が採れることを、当然知っていたでしょう。原料は自国内で生産できる。後は優秀な鍛冶職を得ることです。肥後国内でゼロから養成している時間はありません。ヘッドハンティング、M&Aで他所から優秀な鍛冶を連れてくれば良い、となります。

そこで大和国尻懸則弘の門人弘村を祖とする来派(らいは)の国村を招いて開いたのが延寿鍛冶です。国村の父、弘村は大和国の出ですが、山城で来国行に学び、その女聟となり、生まれた息子の国村も来派の鍛冶になっていたのですが、菊池武房の要請に応じて菊池に来た(延寿太郎國村)***、と言われています。そうなると、国村は国行の孫ということになり、阿蘇神社に伝わったあの幻の名刀「蛍丸」の来国俊の甥にあたることになります。国村銘には建治の時代の刀があるので、国村は1275年ないし1278年にかけて菊池に来たことが確認されます。

***「延寿太郎屋敷跡」菊池市下西寺(菊池市中心部の西で菊池川右岸と迫間川左岸に挟まれた一帯)。当時の菊池川は現在よりも1kmほど北を西流していて、屋敷跡から菊池川までは今よりずっと近いものでした。菊池に招聘された国村は、水運や砂鉄採取の面からこの地に屋敷を構えました。今も古井戸が残り、国村が京都の八坂神社の銅鏡を守護神としたという縁から、後に八坂神社が建てられ、延寿大明神として弘村・国村の父子が祀られています。また、神社の裏には、同田貫・延寿の祖である延寿弘村と国村の墓があります。

菊池市西寺の八坂神社。延寿太郎屋敷跡

文永の役が1274年、2度目の弘安の役が1281年。その間に執権北条時宗が蒙古襲来に備え九州探題(鎮西探題)を設置しています。文永の役を直接経験した武房が、幕府の動きに呼応して蒙古の再来に備えたことは明白で、実際、弘安の役の防衛戦には延寿鍛冶による武器の内製化が間に合ったことになります。

菊池千本槍

菊池氏の槍の実際は、兵で刀身六寸、隊長は刀長一尺。これで、誰が隊長か一目瞭然になります。そして菊池で槍、とくれば千本槍ですね。延寿鍛冶が鑓を多数鍛え、その様式が菊池槍と呼ばれたのは事実ですが、菊池千本槍に関しては、多分に後世、特に明治期のフィクションです。明治時代、皇室に忠義を立てる武人を称賛する創作物語が多数作られたうちの一つです。物語は、南北朝の時代。箱根竹ノ下の戦いにおいて、北朝の足利直義(尊氏の弟)の軍3千の前に敗走寸前だった南朝方の菊池武重の兵千人。ここで武重は、兵に竹と短刀で即席の槍を作らせ、3倍の敵に打ち勝った、後に武重はこれを基に槍を作らせ、それが延寿鍛冶のもとになった、となっています(時代考証が合いませんね)。しかし、明治の代では、南朝の忠君勇猛智賢の武将が劣勢をはねのけ創意と戦意で多数の敵に打ち勝つ、という図式が大いに受け入れられ、この創作を元に、帝国海軍士官に菊池槍直しの短刀を用いることが流行りました。忠君の精神的・歴史的な意もありますし、菊池槍は細身で海軍士官の装備としてうまく合ったのですね。

清國と正國、同田貫の誕生

同田貫

同田貫は延寿の分派として起こりました。発祥は菊池市稗方(ひえかた。現在の菊池市中心部の北2kmあたり)の地ですが、後に正国・清国の兄弟をはじめ兵部・又八等の刀工達が玉名に移住して鍛刀しました。その歴史を追ってみます。

菊池氏滅亡後

菊池氏は16世紀初頭まで中世肥後の北部にあって自領内に延寿鍛冶を抱えましたが、菊池一族が衰退した後は、延寿鍛冶の一門も崩壊し、鍛冶をやめ転農したり刀鍛冶から村鍛冶になったり、あるいは諸所に散らばってしまいます。

一派が玉名移住

そのうちの一つで刀鍛冶を続けたものに、菊池郡今村(現在の菊池市中心部の南、菊池川の対岸)の木下家があり、その先祖は延寿太郎国村でした。木下家から分家して、さらに玉名郡伊倉村に転住した鍛冶もありました。これが伊倉同田貫です。肥後國誌玉名郡の条には、「天正文禄(1573)の比、菊池延寿が末流此所に住し専ら刀、脇差を製す兄弟あり、清正候名を賜りて清國、正國と銘を書く」あります。そのとき、弟の木下正國に随して来た小山上野介という門弟についての記述もあり、「玉名郡亀甲村に天正の頃より小山某という剣工有り、製刀に同田貫と銘打ちしに付き、里人其地を同田貫と唱ふ」とあります。同田貫の木下兄弟に自分の名(清正)から一文字ずつ与えた、というのです。

加藤清正が高評価

1588年(天正16年)27歳の加藤清正は、肥後国衆一揆後の荒れ果てた肥後の北半国の領主として入国し、その地で見出した同田貫の実戦志向の強靭さを高く評価し、熊本城の常備刀として大量に同田貫の刀を作らせ、自身も朝鮮出兵の際、同田貫を差して渡海しています。元寇の国土防衛戦から生まれた強靭な延寿鍛冶の流れを引き継ぐ同田貫は、戦国の武人・加藤清正によって実戦での性能を評価され、名鍛冶として再発見されたのでした。この頃の正国作刀は本妙寺が蔵する県指定重文のものが有名です。

同田貫、まとめると?

同田貫とは、菊池の延寿鍛冶の一派が玉名郡に移住して、その成した刀を同田貫銘とした、その鍛冶があった地を村人が同田貫と呼んだ、ということです。作刀の流派は、来派→延寿→同田貫と連なり、京の作刀が作風を変えながらも肥後熊本に根を張ったことになります。

玉名の同田貫

玉名市亀甲の県道347号線(旧国道208号線)北側には、同田貫鍛冶趾記念碑とともに、同田貫刀鍛冶の墓があります。墓は、玉名で同田貫銘の作刀をした小山上野助の師匠であり、菊池から移った伊倉同田貫の弟、木下上野介正國のものですから、加藤清正の庇護の下、木下兄弟の兄・清国が伊倉の木下同田貫、弟の正国が玉名亀甲で小山同田貫として活躍した、と見るべきでしょう。

玉名市亀甲の同田貫鍛冶趾記念碑

また、玉名の同田貫刀鍛冶の墓を守る小山家に家宝として伝わる家系図では、小山家の始祖は菊池家第七代・菊池隆定の次男・菊池隆親である、とされていて、同田貫は紛れもなく中世南朝菊池氏のDNAと菊池氏が志向した強い刀を作る意図を継承しているのです。このことが、後年、明治の代になり同田貫が再々フィーバーすることにつながります。

同田貫の読み

ところで、同田貫という名称についてですが、元々は延寿鍛冶ゆかりの菊池の地名です。延寿鍛冶の一派は、菊池市稗方にも居住の実績があり、その場所が「同田貫」でした。ただし、菊池の里人は、“どうだぬき”ではなく、“ずだぬき”あるいは“ずーだぬき”と読むそうです。

消滅と復興 江戸期以降の同田貫

加藤家の抱え鍛冶として栄えた同田貫ですが、二代加藤忠弘の代に加藤家が改易となり、細川忠利の入国後は鍛冶場は衰亡し、その鍛刀技術も一時失われます。

これを再興したのが上野介正国から数えて九代目になる正勝です。正勝は薩州正幸から鍛刀の術を習得し、十代宗広・十一代宗春に至り、新々刀同田貫を繁栄させます。正国以後でもっとも有名なのはこの宗広で、通称を寿太郎・延寿太郎と称します。肥後の新々刀期(1772年以後)を代表する刀工の一人で、繁根木八幡宮に奉納されている刀(県指定重文)はこの宗広の作です。

また、1909年(明治42年)の清正公三百年祭には、加藤神社に同田貫作の太刀一振りと薙刀一本が献納されました。

折れず 曲がらず 同田貫

天覧兜割り

1886年(明治19年)11月10日、紀尾井町の伏見宮貞愛親王邸(現在のホテルニューオータニの場所)に明治天皇の行幸があり、数多くの催しものがなされました。その中で、刀での鉢試しが「天覧兜割り」と呼ばれるもので、いずれも当時の剣の使い手として高名であった、榊原鍵吉(直心影流)、逸見宗助(立身流)、上田馬之助(鏡新明智流)の三者が、日本刀で兜が切れるか?という無謀な試技に挑みました。

結果、逸見と上田は失敗したものの、ただ榊原のみ同田貫を用いて明珍作の十二間筋の兜を切り口3寸5分、深さ5分斬り込み、伏見宮から金十円が下賜されました。これにはさらに逸話があり、榊原は成功の自信がなく悲壮な覚悟で臨んだ天覧の当日、同田貫を刀剣商から手渡され成功した、と。これにより榊原の剣術の名声が上がったことはもちろん、何よりも同田貫の剛刀としての驚異的な強さが世に広まることになったのでした。

以後、「折れず曲がらず同田貫」と称され、美術品としてではない刀剣の魅力を持った名刀として高名になりました。

同田貫 Now!

明治に確立した同田貫のイメージは、現在に至るまで様々な形で受け継がれ、剛刀の代名詞として広く世に認められています。

そのような中、平成末あたりから、なんと若い女性を中心に、日本刀の大ブームが巻き起こっています。きっかけは日本刀自体が話し、キャラクター性を持たせたオンラインゲームでしたが、そこから日本刀そのものへの関心が大きく高まりました。各地の博物館がこぞって刀剣展を開催するなど、社会現象にまで発展しています。超人気ゲームである“刀剣乱舞”に、「同田貫正國」という刀が登場します。明治時代、天皇の御前で唯一鉄の兜を割ることに成功したという逸話を持つ、とされています。テレビ時代劇で一世を風靡した、「荒野の素浪人」で三船敏郎が演じた峠九十郎は同田貫を差していましたし、小池一夫の「子連れ狼」では、萬屋錦之介が扮する主人公・拝一刀が“胴太貫”という剛剣を使いました。

他にも、「破れ傘刀舟悪人狩り」「三匹が斬る!」「必殺仕事人」などの作品の中でも、主人公や強い剣士が好む刀として扱われています。「折れず曲がらず同田貫」とあだ名されるように、強く丈夫な豪刀のイメージを確立している同田貫刀ですが、その歴史を紐解くと、菊池一族に深いゆかりのある刀剣で、肥後の誇りでもあります。

で、本校所蔵の同田貫は?

同田貫次兵衛銘の鑓身。刀身長二尺四寸。刃幅二寸ほど。製作は、安土桃山時代。これが赤(朱)色の槍柄につけられています。熊高校旗は、この朱色の柄の先に留められていて、槍身がそこから先に伸びています。卒業式壇上の、この槍。この校旗。是非ともご覧あれかし。

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