銀杏のこころ 桜の意味

正門に続く坂から母校を望む風景には、季節ごとに違う表情があります。それは、樹木に茂る葉っぱの多寡・色合い、その向こうの校舎の見え方などで変化しているからでしょう。

つまるところ、桜並木とその左奥に植立する大銀杏「不知火」が、花を咲かせたり葉の色彩を変化させたりしてくれるから、とも言えましょう。こう書くと、桜と銀杏は、学校正面の装飾装置のようにとらえられてしまいそうですが、野田寛先生は、それぞれの樹木に「思い」も託されています。

美風の本據たれ

野田糾夫先生*(熊中14回卒)が残された、野田寛先生との往復書簡に、そのことが書いてあります。

「熊中・熊高八十年史」122頁、および「熊中・熊高一〇〇年史」上巻151頁のコラムから引用します。

熊中・熊高のシンボル「銀杏」

熊中・熊高の徽章である「銀杏」。明治39年(1906)4月9日に制定されたこの徽章の由来については、「江原会会報創刊号」に「熊本中学校徽章の意義について」という文章を本校旧職員野田赳夫(原文ノママ)(中14)が寄せている。そこには野田初代校長からの手紙が載せられており、済々黌時代からの桜に代わって銀杏を採用された野田先生の気持ちがよく伝わってくるので引用してみよう。

拝復、昨夜は失礼仕候。徽章の意義は、銀杏城にちなみ銀杏を以て熊本県(肥後)の伝統的固有の美風を代表させ、熊本中学を以てその美風を維持し、養成する所の正統的本據とする抱負を寓したる次第にて、玄関前に桜と銀杏樹を植えたると同様にて、それがため、門柱も熊本城に縁あるものを建てたる次第に候。

早々頓首

                                                野田 寛

              五月三十日

野田糾夫殿

 追而 桜は無論日本全国を代表し、大和魂即日本精神を代表させたるものに候

これは昭和十年五月二十九日夜野田寛先生を訪問申上げ種々御高説を拝聴した際、談偶々熊本中学校徽章の問題におよび、後になり念の為、書翰にておたづね(原文ノママ)したのに対する先生の御返事である。

このようにして出来たのが熊中の徽章で、熊高はそれを若干のデザイン変更で継続して使っているのである。以下略

*野田糾夫:「熊中・熊高八十年史」の“人物伝”の章に詳しい紹介がありますので、そこから一部引用しておきます。

生き辞引き 野田糾夫

…略… 明治末年の創立十周年を生徒として迎え、大正8年(1919)に母校の教壇(英語)に立たれてからは、昭和13年に人吉中学校校長に出られるまで19年間、野田・武田・福田の三代の校長に仕えられた、文字通り熊中の生き辞引、生き証人であられる。 以下略

校章のデザインと白線の由来

ところで、創立からしばらく、熊中は濟々黌の制服および桜花校章をそのまま使用していたのですが、1906年(明治36年)4月9日、制服変更とともに熊中の校章は三ツ葉銀杏葉形に改められています。

この三ツ葉銀杏の熊中の校章をデザインしたのは、静岡県掛川町出身の石川林平氏です。石川氏は1898年(明治31年)4月から1911年(明治44年)6月までの13年3カ月、つまり濟々黌と熊中が分枝する以前の私立の濟々黌時代から在籍していた熊中の図画教師でした。

そしてその濟々黌時代からの図画弟子に甲斐英雄(青萍。熊中4回卒)がいますが、男子生徒の詰襟学生服の袖にある黒蛇腹に白線、これを昭和初期にデザインしたのが甲斐英雄です。遠目にも目立つ白線は、生徒の非行防止目的。当時の熊本県下校長会で、「生徒の非行防止のため、制服に特徴ある印を入れよう」、との申し合わせがあり、それに沿ったものです。

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