熊高生諸君! 元気ぃ、あるかぁー⁉

 「うぅーっすっ!」
応援団の〆で、校歌と第二応援歌が終わる。閉会。が、期待と緊張感が走る。見渡す。あるんだろう?どこから?お約束だから。直後。彼が駆け入って来る。
 「ちょっと待ったぁー!」
出た!軽い安堵と小さな笑いとが周囲を満たす。彼は、前方、壇上中央に位置取る。両足を肩幅に開く。背筋を伸ばし腕を前に組み姿勢を正す。そして大声で問う。
 「熊高生諸君!元気ぃ、あるかぁー⁉」
 「おーっ!」
 「まだ、まだ。声が小さぁい! 元気ぃい、あるかぁあー!」
 「おぉおぉー!!」
 「げんこつだあー!」

江原会の会員なら数行読めば、これが何の場面なのかわかりますよね。音声付き動画が脳内で再生され、思わず拳を上に振り上げ、腰をかがめたくもなります。
今回は、この「げんこつ」の起源とその探索にまつわる話です。
かなりの長編になりますが、第一部で、現在確定している江原会的に公認されている「げんこつ」起源を記載し、第二部で確定に至るまでのドラマお伝えいたします。そして、最後に第三部として、蛇足ではありますが、筆者の心に残存する疑問点へのディスカッションを付記します。

2012年度 東京江原会総会 くまモンも、げんこつだ!

第一部 「げんこつ」の起源

まず、確定している「げんこつ」の歴史的起源について記載します。
「江原会会報」2008年(平成20年)6月1日 復刊第48号2面に掲載された記事、「校史発掘 げんこつの由来について 一〇〇年史『げんこつの由来』疑問にピリオド」をご覧ください。

3段にまたがる記事で、第1段に「一〇〇年史」の「げんこつ」由来記事を訂正するに至った経緯が記され、次の2段を使って、訂正記事本文、つまり確定版「げんこつ」の由来が書かれています。

ココに注意!

読後には、1953年(昭和28年)のGK杯*と、1953年・55年(昭和28年・30年)の甲子園での「げんこつ」応援のことが印象に残りますが、第三段目の中ほどに、「げんこつ」は、昭和26年秋、当時3年生の上野勝利さん(高4回)が考案したものである、と記されています。

* 大会主催のNHK熊本放送局のコールサインJOGKにちなむ。1953年(昭和28年)6月3日から、第1回GK杯高校野球大会が水前寺野球場で開催され、熊高は一回戦対九州学院戦を2-1で勝ち、準決勝は熊高5-3熊商、そして決勝も熊高3-1済々黌と、このGK杯で優勝しています。その勢いで夏の甲子園熊本県予選、西九州大会も勝ち抜き、初の甲子園出場につながります。詳細は別項「2回行った夏の甲子園」にある通りです。

第二部 55年目の真実

「げんこつ」の起源は解明されましたが、そこに至るまでには、江原会の多くの人たちの熱意と長い時間を必要としました。
「げんこつ」の起源が明らかになったことは画期的ですが、筆者には、その解明過程にも熊高らしさ・江原会の精神が発露していて、とても素敵だなあ、と思えるのです。今度は、解明過程を時間軸に沿ってたどってみましょう。

1)一〇〇年史の「げんこつ」

第一部で紹介した江原会会報掲載の訂正記事中にある、2000年(平成12年)10月30日発行の「熊中・熊高一〇〇年史」上巻162 頁のコラム「江原エピソード『げんこつ』の由来」、この記事が議論の出発点になりましたので、次に、その全文を引用します。

 本校の部活動や卒業式などの全員応援で行われている「げんこつ」。その正調のやり方は次のとおりである。

①両手をげんこつ握りにして両肩脇に構える。その時両足は膝をやや曲げる。

②膝の屈伸と共に構えた両手を天に突き上げるようにする。

③これを繰り返す。

 ではこの応援の形はいつ出来たのであろうか。

 時は昭和29年(1954)、第2回GK杯(現在のNHK杯)高校野球大会において、グランドの上の大会のみでなく応援の方も頑張ろうということになって、その時九州学院は「手招き」鎮西学園は「西」の人文字をした。ところが我が熊高はその時することがない、さあ困った、というわけで柔道部員だった者が前に出て即興で作ったのがその始まりという。手招きを破ろうというので、はじめは前につき出していたものが、後に「天つく」の今の形になった。

2)その前からあったよ

「一〇〇年史」が発行された直後から、このコラムを読んだ人の中に違和感を訴える方が少なからずいました。江原会会報の訂正記事冒頭でも、そのことが書かれています。

コラムには「げんこつ」が1954年(昭和29年)に初登場した、と記されているのですが、その前年の1953年(昭和28年)夏、当時の在校生は甲子園のスタンドに駆け付け、そこで「げんこつ」の応援をしています。そのことを自慢の記憶とする江原会会員が多数存在しているのですから当然の反応でした。

3)ルーツ探し始まる

「東京江原会会報」第50号3面 「特別寄稿 “げんこつ”のルーツを探して」 2005年(平成17年)発行の東京江原会会報に寄せられた井福祐二さん(高8回)の報告と情報提供を求める呼びかけが、「げんこつ」の起源を探る動きの局面展開を促しました。

1953年(昭和28年)4月入学・1956年(昭和31年)3月卒業の井福さんら高8回生は、在学中1年次と3年次の2回も、甲子園で「げんこつ」をした唯一の学年(うらやましい!)ですから、真相の究明に一番近いポジションと言えます。
また井福さんご自身が柔道部だったとあって、「一〇〇年史」の “柔道部員が即興で” の件には思い当たるものがなかったことも探索の動機になったそうです。

記事中、井福さんは、多くの方に連絡をとり、多方面から真実に少しずつ近づく苦労を書いていらっしゃいます。
しかし、関係者の熊高在学は50年以上前の話とあって、それぞれの証言には、互いに整合性を欠いていたり、井福さん自身の記憶と食い違っていたりしていて、この時点では、まだ真実にはたどりつけませんでした。寄稿は、さらなる情報提供と母校野球部の3度目の甲子園を願う言葉で終わっています。

4)見つけた!「げんこつ」の創案者

「東京江原会会報」第51号1面 「続 “げんこつ”のルーツを探して 原点に帰る ついに見つけた『伝統』の創案者」
2006年(平成18年)4月発行の東京江原会会報に載った井福祐二さん(高8回)からの続報は、「げんこつ」が創案された場面を見事に活写しています。

フェーズ1 昭和28年より前だ!

元熊高野球部長の川越宝輔先生、元熊高学校長の中西康夫さん(高11回)らは、「この人なら知っているはず」と、井福さんに川口博之さん(高6回)を紹介しました。川口さんの話を要約すると、次のようになります。

 ①1953年(昭和28年)、当時3年生で生徒会長だった川口さんは、応援団長を務めた。
 ②この年、「げんこつ」は名物応援として既に存在していた。
 ③応援のノウハウは、当時早大生だった樅木繁人さん(高4回)に教わった。
 ④「げんこつ」の創始者が誰であるか、それを聞いたのか、記憶があいまいである。

1951年(昭和26年)に熊高の全校応援が始まっているので、諸人の話や③と合わせて考えると、どうやら、「げんこつ」は、高4回の誰かが1951年(昭和26年)に創始したのではないか、というところまで迫りました。

フェーズ2 見つけた!

そんな折、井福さんに上野一也さん(高5回)から「兄、上野勝利(高4回)が『げんこつ』を創始した」との情報が寄せられました。そして上野勝利さんは、同級生らに確認を取った上で、井福さんに当時のことを再現してくれたのです。その概要は次のようなものでした。

 ①「げんこつ」を考え出したのは、上野さんである。
 ②1951年(昭和26年)、3年生で生徒会体育部長であった上野さんは、自然な流れで応援リーダーになった。
 ③同年9月15日~17日に水前寺球場で開催の東口杯に、熊高野球部の出場が決まり、初の全校応援で臨むことが決まった(その年の甲子園の四強や九州の上位校が招待されていた)。
 ④応援リーダーの上野氏は、三三七拍子が陳腐に思え、新しい応援スタイルを模索、ついに「げんこつ」を創始した。
 ⓹応援に「げんこつ」を利用しよう、と思いついたのは、旧陸軍宿舎の旧校舎。ガタガタ音のする廊下を歩いているときだった。
 ⑥腰を落として、天を突く振付は、飽託郡*の田舎から1時間以上かけての徒歩通学の途上で決めた。
 ⑦全校応援の練習で、校舎を取り巻く土堤に全校生徒を集め、「げんこつ」も練習した。
 ⑧熊高初の全校応援は、東口杯の前の「対校試合」がデビューとなり、そこでの「げんこつ」がユニークだ、と評判になった。

*1896年(明治29年)旧熊本市を囲む町村で構成。以後、熊本市との合併を繰り返し1991年(平成3年)2月1日消滅。

霍見芳浩さんも証言

東京江原会会報のこの記事には、NY市立大学教授の霍見芳浩さん(高6回)が帰国なさった際に語られた「げんこつ」創世期の様子が、コラムとして付記されています。それによりますと、

 ①「げんこつ」は上野勝利さん(高4回)の創案である。
 ②1951年(昭和26年)秋、1年生だった霍見さんは、総体に出場する野球部の全校応援の練習に参加し、上野さんの「げんこつ」応援指導を受けた。
 ③「げんこつ」は秋の総体の公式試合では、なぜだか披露されなかった、と記憶している。
 ④1953年(昭和28年)、3年生になった霍見さんは応援団の副団長で、団長の川口博之さんとともに、③以降お蔵入りしていたユニークな「げんこつ」を応援の目玉にすべく、野球部が出場する水前寺球場での春の大会でそれを復活させた。これが「げんこつ」の公式戦デビューである。
 ⓹この年、熊高野球部は地区大会を勝ち上がり甲子園に出場したが、「げんこつ」で盛り上がる整然とした応援も県内外で評判になった。「全校応援で熊高は甲子園に出場した」
 ⑥時が流れ去って行く今、熊高の貴重な伝統のひとつである「げんこつ」の始まりについて証言しておきたかった、と結ばれています。

第三部 継続の秘密

以上のように、「げんこつ」のルーツは解明されました。

東京江原会会報第51号の1面記事文末には、井福さんの言葉として、一連のルーツ探しを通じて「卒業生諸君の『げんこつ』に対する大きな愛着」を痛感した、とあり、さらに「あとがき」は「新たな伝統を創り、その伝統の『かたち』だけでなくその『こころ』を将来に継承していく大切さも改めて学んだ」と結ばれています。まさに同感の極みです。井福祐二さんの「げんこつ」ルーツ探し結実は、江原会の偉業と言えます。

2年後の復活

それはそうとして、筆者には、まだ気になる点が残りました。
霍見芳浩さんのコラムにあるように、上野勝利さんによる「げんこつ」の創始は1951年(昭和26年)秋。そして、川口博之さんや霍見さんが応援団として「げんこつ」を指導したのが1953年(昭和28年)です。
霍見さんが書かれているように、1952年(昭和27年)年度中には「げんこつ」はお蔵入り状態、その1年間はどうやら「げんこつ」は熊高生の前から消えていたようです。

高校には3学年しかないので、「げんこつ」が、どんなに高評価で強い印象を与えるパフォーマンスであっても、何かの事情で2年間お蔵入りが続くと、その翌年度の在校生は誰も見たことがない事態に陥ります。特にビデオなどまだなかった時代であれば、2年間の放置は消滅と同義だったことでしょう。

幸い、川口さんや霍見さんは、1951年(昭和26年)1年生のときに3年生の上野さん指導の「げんこつ」を実体験なさっていましたので、2年後の1953年(昭和28年)、3年生になったとき「げんこつ」を復活させることができました。
これは「げんこつ」の再誕生とも言えます。
このとき「げんこつ」が再採用されていなかったら、その後「げんこつ」はどうなっていただろうか?川口さんや霍見さんたちが卒業した1954年(昭和29年)4月以降、「げんこつ」はすんなりと、在校生の誰もが知り、皆が愛する普遍的存在になったのだろうか?
こんなことが筆者は気になっていました。

「げんこつ」、なぜ継続したのか?

今や「げんこつ」は熊高、江原会の必須アイテムです。ゼロから「げんこつ」を創った生徒。お蔵入りしていた「げんこつ」を2年後に復活採用し再生させた生徒。さらに、その後も「げんこつ」を継続させてきた数多くの生徒たち。そのうちのだれか一人でも与しなかったら、令和の熊高で「げんこつ」が響きわたることはなかったのかもしれません。

マーケティングの「イノベーター理論」に従えば、上野さんがイノベーター(革新者)で、川口さんや霍見さんはアーリーアダプター(初期採用者)でしょう。彼らの後続にはマジョリティ(追随層)やラガード(遅延層)の存在もあったはずです。

昭和29年の「げんこつ」

そんなことを考えていたら、偶然にも、これまで登場した方々とは全く別の、あるOB(仮称Aさん)から寄せられた「げんこつ」の始まりに関する記述に接する機会を得ました。ここまで述べてきた「げんこつ」の創始期に続く時期の在校生の実体験を記したその文面には、川口さんや霍見さんたちが卒業した後の「げんこつ」をめぐる実相が書かれていました。
その概要は次の通りです。

 ①1954年(昭和29年)5月、水前寺野球場で行われた第二回GK杯に熊高野球部が出場。
 ②球場で前年同様に全校応援が行われた。
 ③このときの各校応援は、学校対抗のコンテスト形式である、という触れ込みだった。
 ④それに備えて、生徒会を主体に即席応援団が作られた。
 ⓹前年同様、放課後帰宅しようとする生徒を校門から押し返し、校庭北の土手に集めての全校応援の練習がなされた。
 ⑥Aさんは⓹の全体練習には参加しなかったので、そこで「げんこつ」の応援練習が行われたのかは不明。
 ⑦球場での試合当日、エールの交換、応援歌、声援、拍手などの応援だったが、声援の最中、応援団長(仮称Bさん)が、いきなり「げんこつ」の応援を始めたのでAさんは面食らった。他の生徒は、事前の全体練習で「げんこつ」に馴染んでいたようだが、Aさんには、そのときの「げんこつ」が初見だった。
 ⑧Aさんは、Bさんの“突発”「げんこつ」について、Bさんのイメージとは違うのだけれども、何とも朴訥だが力強く、全員を一つに纏めるのに十分だ、と感じた。
 ⑨それから55年後、AさんはBさんに「げんこつ」応援導入の動機を尋ねた。その答えは「(Bさんの)兄(高4回)の同級生の上野勝利さんが『げんこつ』応援を行った、という話を聞いていており、それを憶えていたので応援に使った」

「げんこつ」2度目の復活

いかがでしょうか。
年次的には連続するので、「げんこつ」が1953年(昭和28年)、1954年(昭和29年)と続けて野球部試合の全校応援で披露されたことになりますが、⑨により、「げんこつ」の応援団長の心理は、前年度の応援スタイルの単なる踏襲ではなかったことがわかります。その意味では、この年の応援団長Bさんも、前年の応援団と同じくアーリーアダプターのスタンスで、「げんこつ」を再採用したことになります。

さらに上記⑦にあるように、「げんこつ」が前触れなく、いきなり始まる形式になっていることにも注目しなければなりません。ここに「ちょっと待ったー!」の原点があるのではないでしょうか。

「一〇〇年史」に通じる事実

もうひとつ大事なこと。
このAさんからの情報には、Bさんが柔道部であった、とも書いてありました。
ここで、「一〇〇年史」の記載をもう一度、ご覧ください。

昭和29年…第2回GK杯で…柔道部員だった者が前に出て即興で作ったのがその始まり

という部分が気になりませんか。⑦のように、「げんこつ」はいきなり始まる演出で開始されましたので、事前の全体練習に参加せず、水前寺野球場のGK杯野球大会で、初めて「げんこつ」をに接した当時の生徒の中には、「一〇〇年史」の記載のように、「柔道部員が即興で」と捉えた人が相当数いたのではないでしょうか。

昭和30年が決定的だったのでは?

ここまで見てきたように、「げんこつ」は1951年(昭和26年)の創始、1年間空いて、1953年(昭和28年)に復活、甲子園でも実施。1954年(昭和29年)に”2度目の復活“。そして1955年(昭和30年)には2度目の甲子園出場です。このときには、当然のこととして、全校応援に「げんこつ」が採用され、それ以降、「げんこつ」は熊高の名物応援として完全に定着したのではないか、と推察します。

あの人のこと、何て呼ぶの?

最後に、「げんこつ」を前方で指揮する、あの人の呼び名について。筆者の在学時代、特に呼び方はなく、生徒会総務の決まった人がやっていたので、「げんこつ」は〇〇君、という認識でした。
しかし、後輩たちにそのことを尋ねると、「げんこつマン」だったり、「げんこつリーダー」だったり、あるいは「げんこつ隊長」だったり、と時代によっていろいろな呼称があるようです。これも、常に愛されてきた「げんこつ」だからこそ、でしょうね。
あなたの在学中には、どう呼ばれていましたか?

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