熊高卒業式に寄せて

その1。壇上の校旗。赤柄の槍。

今は毎年3月1日。熊高の卒業式は、質素に飾られた母校体育館で、荘厳かつ晴れやかに挙行されます。ステージ中央、校長先生が立たれる壇のすぐ脇には校旗があります。卒業式には欠かせない重要なアイテムです。

旗を展示したり持ち歩くとき、旗は旗竿につけられます。軍旗だと槍が竿になり、一般に槍を模した旗竿も多用されます。

熊高の校旗はどうでしょうか。写真を見ると、旗は赤い竿についていて、竿の上方には、さらに長細く突き出すものが見えます。実はこの旗竿、竿ではなく、本物の槍なのです。しかも、あの有名な「同田貫」です。刺せば刺さるし、切れば切れます。実戦の槍そのものです。

なぜ、校旗がこの形式を以て展示されるのか?それは、そう決まっているから、です。

熊中校旗については、次のようになっています。

校旗は『カチ色の地に白色で校章を表し、周囲は白の縁をとり、柄は朱、大身の槍を付す』ことに決定 

卒業式に列席なさる機会があれば、校旗と槍にもご注目あれ!

同田貫の槍が熊高にある由縁、同田貫とは何なのか、それらは、また別項にて。

その2 55年目の熊中卒業証書

2000年(平成12年)は、熊中・熊高創立百周年の年でした。学校・育友会・江原会は、それぞれに、あるいは相互に協力して、数多くの祝賀行事と記念事業を行ないました。どれも素晴らしい思い出なのですが、うち一つだけ挙げよ、と言われたら、筆者は百周年の式典で挙行された熊中45回・46回の方への55年ぶりでの卒業証書授与式を選びます。

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月、熊中では中45回生と46回生が同時に卒業しました。この稀有な事例の背景を書きます。

前年夏にはサイパン島守備隊が玉砕。戦局はいよいよ厳しく、3月9日に東京大空襲、3月13日に大阪大空襲、3月26日に硫黄島玉砕、3月27日に健軍の三菱航空機製作所に爆撃、4月1日には米軍が沖縄本島に上陸しており、本土決戦間近!ホンとマジか?という世の中でした。

1944年(昭和19年)5月22日に「戦時教育令」が出されました。これに従い、熊中(に限りませんが)は、「六時間の教育は不要」なので教室の授業ではなく、ひたすら昼夜の勤労奉仕の毎日になりました。運動場も麦畑・カライモ畑に変身しました。学徒動員がかかり、4・5年生は鹿児島の鹿屋まで行っています。「ひもじい」「きつい」「帰りたい」・・・詳細を書いていると、それだけで別にコーナーができてしまうのですが、当時熊中3年生だった方は「江原七十周年記念号」に次のように記されています。

朝の七時に水前寺に集まる・・健軍まで歩く・・・もうはく靴もなく、はだし・・・休みは一カ月に一度・・・食物はもう満足に口に入れることができなくなり・・・貴重品の洋服はつぎはぎだらけで、まったくの少年労働者であった

前述のように、学校が本務の教育ではなく集団勤労奉仕の現場になった法的根拠は、1943年(昭和18年)10月12日に東條内閣が閣議決定した「教育ニ関スル戦時非常措置方策」にありますが、これでもうひとつ重要なことが決められています。この閣議決定の中にある「措置」の一部を抜文します。

第2 措置

(3)中等学校(中学校・高等女学校・実業学校) 

(イ)昭和19年より4学年修了者にも上級学校入学の資格を与え、昭和20年3月より中等学校4年制を施行する時期を繰り上げて実施する。

熊中46回卒生が、この学制改革の対象学年にあたり、熊中5年生を終えて卒業する中45回卒生と一緒に、一学年下の中46回卒生の全員も4年次終了での卒業になりました。

中46回生の中には、卒業時点で、上級学校への進学がかなわなかった人もいましたが、そのうちの45名は、「演習生」として、それまでに引き続き肉体労働に動員されました。

このような事情で、1945年(昭和20年)3月、当時の熊中5年生・4年生は、卒業はしたものの卒業証書をもらうような環境でなかったのです。国家総動員の時代がそうさせたのですが、中45回・46回の方々の心にへばりついて離れなかったカサブタのようなものが、55年の年月を経た創立百周年の祝宴の壇上で、さらりと剥がれ落ち見事に快癒した現場に居合わせた邂逅。それが筆者の心の宝ものになっていますし、この「卒業式」を挙行なさった中西康夫 第18代学校長(当時。熊高11回卒)のホスピタリティーにも感動しました。

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